「鍛える」の意味

鍛国研(「鍛える国語教室」研究会)主宰 野口芳宏 


 

主催は,「『鍛える国語教室』研究会/空知ゼミ」とあります。この「鍛える」という言葉にも,一言触れておく必要があると思います。

「鍛える」という言葉は金偏であります。「鉄は熱いうちに鍛えよ。」という言葉があります。鍛造という言葉の「鍛」であります。赤く熱して,それを槌で打つことで不純物が飛び散り,純度の高い鋼が出来上がるのです。こういうのを鍛造と言います。

私は一貫して,教育というものは教師が中心になるべきだという立場を貫いて今日に至っています。自主性だとか自発性だとか主体性だとか,しゃれた言葉に隠れて教師は教えなくなっています。支援をすればいい,援助をすればいいと言っています。

何が正しくて何が誤りかということをきちっと教わらない子どもが,そのまま体だけ大人になっていくのですから,成人式に見るような,全くばかばかしい式にもならない,醜態を演ずるのです。あれは学校教育の敗北,教師への訴えだと思っています。何が正しくて何が誤りか,教師がきちっと子どもに教え,鍛えてなくてはいけません。

子どもは決して,望ましい資質だけを持った天使ではありません。子どもの心の中には,怠けもあれば,酷さもあれば,狡さもあります。大人とちっとも変わらないのです。だから,子ども任せにしておけば,ろくな教育は成り立たないのです。きちんと子どもを鍛えていくことによって,自力で生き抜いていける立派な人間が育ちます。

我々教師は,そういう人間をつくる責任があります。そういう意味から,私は鍛えるという言葉をずっと使い続けています。そして,軟派な教育ではなく硬派の教育,これが私の主張していることであります。

一見それは,教師中心の押し付けのように思えるかもしれません。しかし,未熟な時期には,十分に鍛えられて成長することが必要なのです。

やがて,あのときいい教育をして貰った,という感謝につながるというふうに思っております。だから,「鍛える国語教室」という会の名前を付けている訳です。

 

2007年2月日(土)第9回国語修業講(札幌会場)札幌ホテルユニオンにて。