岩見沢市立美園小学校3年3組学級通信
輝き! 18,2008年4月25日(水)柳谷直明発行
授業公開
朝から少し忙しかった。指導案を昨夜完成させ,朝印刷して教員全員へ配付した。
その前に,朝自習の『漢字マスターカード』を印刷した。今日で12枚目である。これで,小学3年生の新出漢字48字を指導し終えた。小学3年生配当漢字のほぼ4分の1である。これは朝一番に登校してきたひかちゃんに配付をお願いした。朝から,働いてくれて有難い。
その後,通信を印刷し,教室へ行った。漢字を覚えるのが身に付いている子は『漢字マスターカード』を5分以内で終えている。身に付いていない子は,朝自習の10分間で終わらないようだ。3人くらいが,1時間目が始まる前に終わっていなかった。ファイト!
1時間目はすぐにグラウンドへ出して,100メートルを2本走らせた。2時間目が学力テストだったので,早めに教室へ戻した。
2時間目は算数の学力テストである。さっと見たところ満点はいなかったようだが,満点に近い子は何人かいたようだね。すごい。
3時間目は国語の学力テストである。算数に比べると,難しかったようだ。特に作文の文章構成を問う問題ができていなかった。2年生に文章構成を問う問題はよくないなと考えながら,問題を眺めていた。国語でも,満点に近い子が何人かいた。すごい子達だ。
4時間目は校区探検へ行かせた。東西南北の方位ごとのグループで,建物や人や土地を調査させた。商店の調査より,地域の調査は対象が広いので難しい。時計を持たせるのを忘れたが,きちんと給食に間に合うように帰って来た。優勝だ。おなかが空いたのだろう。次回からは時計を持って行こうね。
5時間目に授業公開を行った。『作文力マスターカード』の授業を25分間で挑戦しようと試みた。しかし,無理だった。35分間かかった。それでも,最終の評価まで終えたので,教材の使い方としてはほぼ完成版である。しかし,ナンバリングの指導を忘れた。その後,漢字の読みテスト方法と音読方法を指導した。音読の学習用語,大小,強弱,緩急,昇調・降調を覚えさせた。
「『かもつれっしゃ』は緩か急か。」
なかなか面白い授業だったろう。
保護者が6名,参観に来て下さった。有難い。私の指導法を保護者に知って貰えると,保護者も指導できる。家庭での指導の参考にして戴きたい。(授業参観へようこそいらっしゃいました。有難うございました。是非次回も,授業公開へ足をお運び下さい。お子さんの指導に役立つ場面があると思います。お待ちしています。)
10分間で5行くらいしか書けない子もいた。だんだん書けるようになるから,安心していてほしい。書けた子は20行を超えた。これを清書させる。今週,来週は出来ないかな。
「作文をたくさん書けて楽しかった。」
こう言っている子が多かったね。柳谷先生の授業は楽しいでしょう。(^^)v
言葉を削る
言葉を削る。これは教師だけでなく,保護者が我が子の学習を見る際にも重要な技術である。言葉を増やせば増やすほど,説明すればするほど子どもは分からなくなる。
こんな言葉をよく耳にする。「いいですか。」「分かりましたか。」「どうして分からないの。」「さんはい。」「せいの。」「〜下さい。」
@ 「いいですか。」
こんな不要な言葉をなぜ使うのか。良い(いい)か悪いかを判断するのは子どもではない。教師である。教師が,子ども一人一人が良いか悪いかを評価し,良ければ先へ進むし,悪ければ指導し直す。その判断を「いいですか。」などと子どもに問うてどうするのか。得てして教師は,自分がしなくてはいけないことを子どもにさせる。(これは私も反省しなくてはいけない。)こんな言葉は全く必要ない。聞かれた子どもも「悪いです。」とは言えないから「いいです。」としか言いようがない。
「いいか,よく聞く。」(私は言葉を削るために,授業では子どもに対して全て常体で話しています。そこに違和感を覚える保護者もいらっしゃるようですが。)
この「いいか」は評価をうながしているのではない。呼び掛けである。注意を喚起する「いいか」である。「いいですか。」とは別物だ。
A 「分かりましたか。」
これは保護者も使うだろう。「分かった?」こう子どもに聞いても仕方がない。親子だけの場ならば「分からない。」という場合もあるだろう。それは子どもの評価になるから有効である。しかし,教室という他者の目にさらされている場合には,分からなくても「分かりました。」と言うだろう。
分かったか分からないかも教師が行う評価である。5×10が分かった? こんな余計な言葉を発しないで,5×10の答えをノートに書くと言えばよい。
教師はあまり言わないが,保護者はよくこう言うだろう。「どうして分からないの。」(もしも,こんな言葉を教師が言っているのでは話にならない。)
「どうして」とは理由を尋ねている。「わからない」理由など,子どもに分かる筈がない。「どうして分からないのか」に答えなくてはいけないのは,分かっていない子どもに教えている大人である。
B 「さんはい。」「〜して下さい。」は私が野口先生に指摘された言葉である。
「さんはい。」ではなく「はい。」と言えばよい。
「下さい。」と教師が子どもに阿るから,子どもが好き勝手にし出す。
授業は指導の場である。指導ではきちんと「〜する。」「〜しなさい。」「〜します。」と断定や命令で進めるべきだという話だろう。
「下さい。」はお願いである。お願いは指導ではない。
「せいの」は千葉大学付属小の先生だった方に教えて戴いた。「せいの」などと勢いを付けさせる言葉を体育以外の授業で言う必要がないという意味だろう。
「さんはい。」も音楽の授業でならばよいと私は思う。「1,2,3,はい」という4拍子の歌の歌い出しで使うからである。国語の授業で「さんはい。」は不要だと野口先生はおっしゃるのだろう。「はい。」といえば「さん」という言葉が削られる。
岩見沢市立美園小学校3年3組学級通信
輝き! 19,2008年4月25日(水)柳谷直明発行
45分間という限られた時間である。教師が言葉を削れば削るほど,子どもの思考時間を保障できる。もちろん,問題ある子を注意するのも子どもの学習時間の妨げである。できるだけ短い言葉で注意し,本題の授業に戻す。または,出来ている子を褒め,出来ていない子に注意をうながす。
「名前を書いている子は偉い。」「ゆうちゃんは10行いった。すごい」
これらは出来ている子のために言っているのではない。出来ていない子を注意する代わりに言っている。
このくらいのことが出来て,プロの教師と言えるだろう。
出来ないから学んでいるのだ
出来てない子を出来るようにしたい。そして,全員の向上的変容を保障したい。これは善意である。この善意は子どもに向上的変容を自覚させる行為で成立する。出来ているかどうかを評価するために発言させる。
出来ていない子は発言出来ない。ここで子どもは恥ずかしい思いをする。そこで,出来ていないのは恥ずかしいことではないと指導する。出来ないから学んでいる。出来ることが大事ではなく,伸びることが大事だという指導である。そして,誰もが出来るように指導する。ここが教師の指導力である。出来ていなかった子に,再度発言させてみんなで称え合う。
出来ない子を出来ないままにしているのは,現状の自覚である。現状の自覚は保護者でも出来る。あなたはこれができていないと言うだけだからだ。現状の自覚から,向上的変容の自覚へと駒を進めなくてはいけない。そのために指導が必要なのだ。
指導によって,子どもが変わる。だから,子どもの向上的変容を保障できないのは,教師の指導力の問題だ。
子どもが整列できないのも,計算が出来ないのも指導している教師の指導力の問題である。それを子どもに言っても仕方が無い。一度指導したならば,黙って待つしかない。
みんなは出来ないことが出来るようになるために学んでいる。だから学校はすばらしい。
こんなことをこの2年間,この子達に指導してきている。出来ない子を見ると,自分の指導力の無さを反省する。そして,もっと授業力を伸ばしたいと思う。子どもの能力のせいにする教師にだけはなりたくない。それは自らの教育力の放棄である。
私も全員に向上的変容を自覚させているとは言い切れない。だから学び続けている。もっと子どもを伸ばしたいから,学び続ける努力をしている。
学び続けているから,自らの向上的変容を自覚できる。それが教師の醍醐味である。
今,私はかわいい子どもに囲まれて,幸せな毎日を過ごしている。野口先生に学び続けてきたお蔭様である。
学び続ける教師のみ,子どもを教える権利有り。