自分流一押しの酒井語録〜『酒井臣吾の学校だより』より〜
「人生には脇役はいない」
由仁町立由仁小学校 柳谷直明
1 時間は自分で作る
3月の最終週を終えようとしている。今日で,私だけに許された時間を失うような気がする。4月から現場復帰である。
この1週間は部屋の片付けをしていた。ほとんど他のことをしなかった。新居へ越して以来3年間余り,書架を一度も整理していない。よく使う書架の本は動いているが,奥の書架には使わない書類が埋まっていた。ダンボール1個分の書類を捨てた。こうして,久し振りに何も書かない数日間を過ごしていた。
廣川さんからの原稿依頼を見付けた。『酒井臣吾の学校だより』から学ぶものだ。これは真っ先に取り組みたい原稿依頼である。すでに何度か拝読しているが,この贅沢な時間を存分に使って熟読しよう。そして新学期への英気を養うことにした。
2 「子どもを大切に」することだ
場所をロイヤルホストへ移し,コーヒーを飲みながら拝読する。金曜日の夕方は,ひばりが丘店へよく行く。コーヒーを飲みながら数時間過ごせる有り難い場所である。読んでいて何度か目頭が熱くなった。
ここでは新学期に肝に銘じたいたいこと三点を取り上げる。そして最後が私流の「一押しの酒井語録」とする。一つ目の引用はこれである。
当たり前すぎることですが,先生方が一人一人の子どもを大切にすればいいのです。(11ページ)
当たり前のことがなかなかできないのが凡人である。
さて,なぜ「子どもを大切にする」のか。その重要性を心底から分かっていないので当たり前のことができないのではないか。
酒井先生は「自分を大切にする子どもを育てる」ために,先生が子供を大切にするのだという。これが,「子どもを大切にする」理由である。自分を大切にする子供を育てるために,教師が子供を大切にするというのだ。教師が子供を大切にすることによって,子供が自分の価値に気付くというのだ。
では,なぜ自分を大切にするのか。その理由を酒井先生は「相手の立場に立てる子ども」を育てるためだという。更に「他人のよろこびをよく分かる子,他人のよろこびを共感できる子。/そして,他人の悲しみをよく分かる子,他人の悲しみを共感できる子」が,自分を大切にする子供によって育つというのである。
教師が子供を大切にする。大切にされた子供は,自分を大切にする。その結果,子供は他人を大切にする。
こうして「広く大らかな心を育てる」ことができるという。子供が大らかな心を持つために,教師が子供を大切にする大らかな心を持たなくてはいけないという論理である。そう在りたいと心底思う。
この論理では,他人を大切にしない子供は教師によって大切にされていないということになる。学級崩壊を起こす子供は,教師に大切にされていないのではないか。だから,教師や社会に反発するのだろう。
子供を大切にするとはどうすることなのか。これを自らに問い続けなくてはいけない。酒井先生は,「大切に大切に教え,励まし,鍛えていけばいい」のだという。
「教え,励まし,鍛え」て,子どもを向上させることが「子どもを大切にする」ことの本質になるのだろう。子供を大切にするといっても,放任することではない。今よりも,一歩向上させることである。
3 個人研修を「勝手に」やる
黙って見ていては向上しない。どこをどう指導するかという教師の学力観が子供の向上的変容を保障する。野口芳宏先生がいう「抵抗と限界」である。どこに抵抗があるかが見えないと,どこを指導するといいのかが分からないのである。
ではどうすると「抵抗と限界」が見えるようになるのか。それは,教師の評価力である。教師に評価力がなくては,実態を捉えることができない。実態を捉えられないと,指導計画を立てることができない。つまり,子供を適切に指導することができないのである。
そこで,個人研修が必要になる。教師自らが修業することによって,子供の実態を把握できるようになる。子供の実態を評価し,「理想状態」へと子供に指導を加えることができる。こうして子供を向上させることが可能になる。つまり,教師の向上がなくては,子供が向上しないという論理が成立する。
私はいつも次のように言う。/ 「子どものためになると思ったらなんでもドンドンやってください。あなたは主役だ。誰に遠慮がいるものか。勝手です。勝手にやりなさい。」(71ページ)
例えば,こんなことも考えられる。通信簿をつける。その際,ある子にBを付けたとする。二つしかない図工の項目が二つともBなので,保護者が驚いて学校へ来たとする。その際「お宅の子は,私の理想としたここまで達しなかったのでBです」と説明できなくてはいけない。
絶対評価では,何を基準に評価したのかということが問われる。「このような指導をしたが,ここまでしか到達しなかったのでAにならなかった」という言い訳である。
このような「説明責任」が絶対評価には必要なのである。多くの保護者は求めないだろうが,これも当たり前のことである。
酒井先生の「子どものためになると思ったらなんでもドンドンやってください」という言葉に励まされて,一つの決断をした。新学期からの方略を固めた。毎週,金曜日の5時間目を国語の研究授業にする計画である。目的は,もちろん子供の向上である。
忙しくて研修がなかなかできない,との声を聞く。果たして,そうだろうか。私は,研修をしないから忙しさが加速度的に増すのだと考えて来た。例えば子供の実態に応じない授業は,子供の学力を低下させる。子供の学力が低下すると,教師の仕事は増えるのである。
テストの丸付け一つを取ってみてもそうである。正解が少ない場合の丸付けは,物理的に時間がかかる。更に精神衛生上良くない。「どうして,こんなミスをするのか」と,丸付けという作業と原因分析という作業をいつのまにか一緒に行ってしまう。ついつい手が止まり考えたりもする。
しかし漢字でも計算でも,ほとんどの子供が満点になると丸付けが楽である。物理的に楽であり,他のことを考えないで仕事ができる。
個人研修をしていないと,子供の学力を保障できない。すると,このように無駄に浪費する時間が増えてしまう。
教師自らが研修によって向上すると,浪費する時間が減る。余計な時間を取られなくなるからだ。更に,子供たちに学ぶためのシステムを身に付けると指導しなくてもできるようになる。漢字などは,2学期から指導しなくてもいい状態になる。
このようなことを漠然と考え,新学期からの計画を立てていた。こうして酒井先生の言葉に励まされ「毎週1回以上,研究授業をする」決意を固めた。
「新卒からの夢」ともいえる100回の研究授業へ向けて,スパートを開始する一年にしたい。酒井先生の励ましのおかげである。
4 子供から学び、教育が成り立つ
「子どもを大切にする」ために,「教師が向上すること」を酒井先生の書から学んで来た。そのために「勝手にやりなさい」という酒井先生の言葉に励まされ,個人研修を決めた。これで一年間,がんばれそうである。
このことを私の学校長に知らせたら,何というだろうか。校内研修にも,もちろん付き合う。しかし,「付き合う」程度である。
今年度は,職場を離れていた。したがって,どのような教育課程ができたのか今の私には分からない。それが,子供の実態から作られたものならば納得する。しかし仮に納得ができなくても,教育課程を作り直すだけの気力はない。したがって「付き合う」ことしかできないと思う。
例えば基礎・基本を扱うにしても,評価基準を作るにしても子供の実態を具体的に知らなくては作ることができない。子供の実態に学ぶという作業が,何よりも優先される。実態を評価するのだ。実態を評価しないで作ったとしたら,各学校で編成する意味がない。
何のために各学校で編成するようになっているのか。地域や子供の実態が違うからである。実態を考慮していない教育課程では,教育効果の望みは薄い。子供の実態を評価しなくては,そこに加える適切な指導計画が作れないからである。教科書教材を並べるだけが,教育課程の編成ではない。
とにかく,個人研修を提案する。校内研修とは別に個人研修をするべきだ。例えば北海道の小学校教師は皆,酒井塾に来て酒井式描画法を学ぶ等である。
5 全員が主役なのだ!
最後に,私流の「一押しの酒井語録」を引用する。
人生には脇役はいない。(75ページ)
私の人生では私が主役である。私の人生で私が脇役になったら主役はいなくなる。私の人生の主役は,まさに私である。名台詞を残すのもNGを出すのも自分である。私の人生の主役は私しかいない。
このことを肝に銘じ,新学期から取り組みたい。子供達一人一人が,それぞれの人生というドラマを演じている。まさに,一人が大切なのである。
私も私の人生を歩んでいる。教師もまた主役である。主役としての教師が研修に励み向上する。それに感化される子供もまた,主役を懸命に演じて向上する。共に,名優を目指すことができる。
だれでも,かけがえのない自分の人生を生きているのだ。(同上)
この書を保護者会でぜひ紹介したい。更に,毎年3月末に再読したいとも考えた。一年間の英気を養うことができる
今,酒井先生の書を閉じる。新学期への心地良いフォースを感じながら。