私が影響を受けた三人の「国語人」

野口芳宏先生講演   

平成13211日 札幌厚生年金ホテル

 

一、    初任校の授業研究の様子

 

 私はこうして大変光栄な舞台を与えて戴き、こんなにたくさんの一級の

先生方にお話を聴いて戴くようになろうなどとは、考えても見ないことでした。省みれば、すべて、私を導いてくださった多くの先生方のお蔭です。私が全くのオリジナリティーを発揮して発見したという技術や法則などは、まずありません。私が私なりに体系付けて申し上げていることはすべて、たくさんの先生方の教えの賜です。

 私は「人間は人間によって導かれる」ということが最も適切だと考えています。勿論、「書物を読んで学ぶ」「自分一人で考えて学ぶ」という学び方もありますが、一番手っ取り早くて、確実なのは、その先生の謦咳に直接触れて、適切な指導を受けて学ぶことだと思います。

 私は新卒の時、貞元小学校という学校で学びました。貞元親王が身を隠していたことがあるという場所で、それに因んで名前が付けられたそうです。この学校は国語の研究校として、千葉県にその名を知られていました。そこにご縁を戴いたことが、今日の私をつくる大きなきっかけになりました。

 貞元小学校では、一年に十一回、国語の授業研究会がありました。一人で十一回です。その他に、算数、社会、理科と年に一回ずつの授業研究会がありました。一番盛んな頃は一週間に三回、一日おきに研究会がありました。

 私が教師になった頃は、授業研究がどの学校も花盛りでした。「貞元小学校著」という本も出ていました。勿論、今では絶版となり、探すことは出来ませんが。監修者は、かの有名な倉沢栄吉先生でした。

 

二、    国語教育の師、高橋金次先生との出合い

 

 貞元小学校の国語教育を専任講師として導いてくださったのは、高橋金次先生です。当時、千葉大学附属第一小学校の教務主任でした。国語教育においては、千葉県屈指の方でした。私は今六五歳ですが、私が新卒の頃、高橋先生は三八歳でした。しかし、五十歳位には見えましたね。もう、髪の毛が幾分かロマンスグレーでした。いつでもきちんと七三に分けていて、一本の髪も乱れてはいませんでした。たった今、床屋さんから出てきたような感じでした。風貌の通り、いつでも勤厳な方でした。

 当時の貞元小学校の校長先生は、鱸三佐男先生という方でした。師範学校では、私の父の同級生だった方です。附属小の高橋金次先生の先輩でもありました。附属小学校で勉強をした経験をお持ちで、「貞元小学校を附属小学校並みのレベルにする」とお考えになっていたそうです。県知事から直接相談を持ちかけられるような、大変力のある校長先生で、殆ど学校を空けている方でした。先生は若い教師と有能な教師を集めることに定評がありました。私が赴任した時には、学校の全職員が十四名で、そのうちの九人が青年部員でした。青年部の今日しか管理職しかいないという、大変若々しく、優秀な先生方ばかりの学校でした。

 私は大学で国語を専攻し、「国語科教育法」や「国語科教材研究法」などの単位を取りました。しかし、大学で教わったことで現場の私の役に立ったということは、皆無といってもいいでしょう。それだけに現場に出て、高橋金次先生に学んだことは、一つひとつが新鮮でした。毎回先生に指導して戴くことが楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。また、私の拙い授業を見て戴くことが大きな楽しみでした。私にとって、研究授業は辛いものであるどころか、本当に楽しいものでした。

他所の先生達からは、貞元小学校は「提灯学校」と呼ばれていました。というのは、平気で夜中まで学校に残って全員が教材研究をしていたからです。またそういう雰囲気の学校でした。そういうことに耐えられる教師しか鱸校長先生は集めなかったのです。子持ちの、家庭的な先生ではなく、みんな独り者、或いはもう子育てが終わったような先生ばかりでした。

 高橋金次先生ご自身には、ついに一冊の著書もありませんでした。私たちはそれを今でも大変残念に思います。本にされれば、優に五冊分位の原稿の分量をお書きになっていましたから。

 高橋先生はいつでも必ず一人の授業者について、一枚のルーズリーフを用意してメモをなさいました。教室に入られるとすぐに四、五行書くのです。教室の第一印象をお書きになっていたそうです。その後に教師の話し方や子どもたちの反応などを書き続けていました。その誠実で真面目な授業観察ぶりに、私たちは心を打たれました。

 私はその貞元小学校で五年間、高橋金次先生から直々に国語教育の指導を受けました。私たちが授業を見る時には、四十五分の中で、三クラスを回りました。高橋先生がご覧になるのは一クラスにつき十五分間です。私たちは高橋先生の後を追いかけて同じ場面を見、高橋先生のお考えと比較して、どこが同じか、どこが違うのか、授業のどんなところに目を付けておられるのかを見習いました。

 私たちは高橋先生を心から尊敬し、先生のご都合が悪ければ、他の日程を変えてでも高橋先生をお呼びしました。それでもどうしても都合が合わずに他の先生をピンチヒッターのような形でお呼びすることもありましたが、その実力の差は歴然としていました。

 

三、    貞元小学校の教材研究の実際

 

 私たちは教材研究に徹底して時間を費やしました。教材研究のための教科書を全巻買わされましたが、むやみに指導書を使ってはいけないと言われました。勉強会を開く時には、物語、説明文の教材を自分たちの力でまずじっくりと読むのです。読み終えると、その教材の主題を書いて、指導目標を立てるのです。自分だけでこれをやるのは大変です。低学年の教材は四、五行しかないものもあります。それなのに主題や、指導目標を明らかにするなんていうのは本当に難しいことです。

 これを五年間続けている内に、私にも相当の力が付きました。六人が一班で、私は物語グループでした。指導目標と主題を確認して、間違った解釈などを話し合って終わりなのです。つまり、素材研究、教材研究は全員でやるけれども、指導法研究は自分一人でやるのです。そこは授業者が考えるべきことです。そういう共通理解がされていました。この研究法を徹底的に実践しました。

 今は事前研究といって、授業の前にすっかり相談してしまい、実際の授業観察となるともうみんな飽きてしまっています。そして授業が終わるとすぐにカラオケに行ってしまったりします。私たちの頃は、授業を見られることは怖いものでした。主題や目標についてはみんなで学び合い、指導法は自分で悩み、それをくぐり抜けての授業展開だからです。そういう集団の中で、先生方は一生懸命教材研究や指導法研究をしました。

 花井先生という、私と一緒に就職した若い先生がいました。大変熱心で優秀な女性でした。ある時、その先生は一生懸命教材研究をして授業に臨んだのですが、授業の段階で失敗をしたことがありました。そしてみんなからかなり強い批判を受けました。最後に高橋金次先生は、

「教材研究が不足していましたね」

とおっしゃいました。それを聞いて花井先生はバーッと涙を流し、

「先生お言葉ですが、教材研究が不足していたと言われたのでは、私は立つ瀬がありません。私はこんなに努力をしました」

と言って大学ノートを見せました。何とノート一冊分、びっしりと教材研究の足跡が残されていました。しかし高橋先生は、

「やはり、教材研究が不足していたのです」

とおっしゃいました。彼女は慰められるつもりで言ったのに、さらに蹴り上げられるような思いをしたことでしょう。彼女は唇をかみしめていました。

しかし、彼女はそれから変わりました。教材研究は、教材を分析するだけではなく、その教材を使っている子どもたちにどのような力をつけていくかということの総合的な研究だということを悟ったようです。高橋金次先生は温厚篤実な方でしたが、譲れないところは頑として譲らない厳格なところがありました。

 

四、    高橋金次先生の教え ―読解と鑑賞―

 

 高橋先生は非常に端的に、明快で、短く、易しい言葉でご指導してくださいました。高橋先生は、

「読解は正確を期さなければならない。しかし、鑑賞は自由である」

とおっしゃいました。ある所までは読解が大切で、読み誤りのないようにしなければなりません。説明文では従って正確な読解力を養われなければならないことになります。表現に即して確かな読みとりをしなければなりません。

文学においても基礎的には正確な読みとりを必要としますが、それを経た後にその作品をどう評価するかという鑑賞の段階になれば、それはもう個人の問題です。画一的に鑑賞の内容を縛るようなことはしない方が良いということです。言われてみれば、全くその通りだと思います。私は鑑賞指導ということと、読解指導ということの関わりの、基本的なことを教えて戴いたと思っています。

 私は五年間、貞元小学校で学び、その後附属小学校に転任しましたが、私が最も力を入れたのは、文学の鑑賞指導と作文指導です。貞元小学校の実践記録を掘り返し、五、六年かけて研究しました。そして私は、「鑑賞の本質は何か」ということについて考えました。そして結局、鑑賞というのは、「理解の連続体」だということを悟ったのです。ですから「詩は分かるものではなく、感じるものである。」などという洒落た言葉がありますが、私はそういう言葉を信じません。やはり、分からなければ、感じられません。分かれば分かるほど、味わいは深まるのです。

 鑑賞行為が即、読解だとは申しませんが、基本的には「理解」が根本道理だと思います。特に詩の鑑賞指導というのは、非常に抽象的な概念を、具体的な言葉で理解させていかなければなりません。

 

五、    お母さん詩人・高田敏子先生の言葉

 

 亡くなられた「お母さん詩人」と呼ばれた高田敏子先生の講演を、附属小学校にお招きして聴いたことがあります。その二年前にも、私は郷里の君津市で高田先生の講演を聴いたことがあるのですが、その時と同じ洋服をお召しになっていました。私は無神経にも、

「君津で高田先生のお話を伺いましたが、その時も、今と同じ服でした」

と言いました。私は決して悪意があった訳ではなく、懐かしさが込み上げてきたので、そのような言葉が出たのだと思いますが、PTAのお母さん方には、「野口先生、何て無神経なことを言うのよ」「女の人にそんなことを言っちゃいけないでしょう」と怒られてしまいました。

 高田敏子先生はこういうことを言っています。

「詩というのは、『良い思いっこ』のゲームです」―と。

私は「詩の定義」について、これほどに易しく、これほどに本質的な言葉を聴いたことがありません。

「『月が上がった』という言い方をします。『月、昇りぬ』という言い方もあります。『月、冴ゆ』という言い方もあります。『月がどのように昇ったのか』ということを、どのように表現すればもっとよい思い方になるのかということを、詩人はいつも考えています。そして、より良い思い方を目指して、詩というものが誕生するのです」というお話でした。

 まど・みちおさんの詩、「ひとつの おんの なまえ」は、とっても素敵ですね。詩人はあんなことを大まじめに考えているのですね。ああいう思い方をしながら生涯を送れるならば、なんて素敵でしょう。同じ一度きりの人生でも、うんと彩り鮮やかに私たちの生活を豊かにしてくれるに違いありません。

 「良い思いっこ」というのは、つまりは「認識」のありようの問題です。詩を理解するということは、「認識」の問題なのです。「鑑賞は理解の連続体だ」という私の仮説が、高田敏子さんの言葉からも立証されたと言ってもいいでしょう。

 

六、    高橋金次先生の教え ―要点・学級経営・漢字指導―

 

 高橋金次先生はこんなこともおっしゃいました。

「要点は点なんですね。点は、あっちにもこっちにもあります。要点というのは要になる点なんです。ですから、ここだ、と指摘できるものなのです。それに対して『要約』というのは自分で作らなければいけないものです。だから要約は、学年が上がってから重点的に指導されるのです」

 こういう風に、高橋先生は誠に明快に説明なさいました。もしも何も理解していない人に「要点とは何ですか?」と尋ねたならば、それこそ要点の不明な説明が返って来ることでしょう。本当に分かっていない人にとっては、それは仕方ないことですが。

高橋先生はご自分で分からないことは「とても難しくて私には分かりません」とはっきりおっしゃる方でした。ある公開研究会で、参会者から、先生の授業について面倒な質問が出されたことがありました。その内容は殆ど記憶にないのですが、高橋先生は、

「難しくて、私にはとても分かりません」とお答えになりました。高橋先生のような大先達が、大勢の先生方の前で、謙虚に「分かりません」と答えられたその態度、姿勢、お人柄に私は強く心を打たれました。

 高橋金次先生はまた、

「授業だけを上手にしようと思ってもそれは不可能だ。学級経営があってこその授業だ」と常におっしゃいました。

学級経営は私も非常に重視しました。日常普段の学級経営がしっかりしていれば、子どもはしっかりと学びます。ところが、普段の学級経営がいい加減で、その時間だけの授業を熱心に準備しても、何にもなりません。ですから、授業研究会の場でありながら、学級の様子について、高橋金次先生は実によく観察していらっしゃいました。「あの子はどんな子ですか?」「クラスの中で浮いていませんか?」というようなことをよく質問なさいました。ほんの短い時間しか授業をご覧になっていないのに、その言葉が的を射ていることがしばしばであり、私たちはぎょっとすることがありました。

高橋先生は、

「結局のところ、普段の学級経営が授業を作るのです。授業を技術の上だけでやるのは、何とも浅いことです」ともおっしゃいました。

私が担任を続けている間は、常に肝に銘じていた言葉でした。

 高橋金次先生はまた、こんなこともおっしゃいました。

 「学年配当漢字の総てを子どもたちにマスターさせた先生は、日本に一人もいません」―と。

 私はそれを聴いて吃驚しました。「へえ、たかが二百字程度の漢字しかないのに、そんなものがマスターさせられないというのか。よし、私がやってやろう」と若気の至りでそう思いました。そして見事に失敗しました。高橋金次先生の言葉は今でも真実のようです。悔しかったら是非、挑戦してみてください。「覚えても、忘れる」という厳然たる子どもの生理に、どのように立ち向かうかということの問題です。

 

七、    高橋金次先生の人生観、教育観

 

 高橋金次先生はご自分の著書はついに一冊もお出しになりませんでしたが、実に誇らしい金字塔をいくつも残されました。それは、「高橋金次指導、○○学校著」という本を四冊もお出しになったことです。自分で書きたいことを書くという個人著書は、「学校著」よりも遥かに易しいのです。と申しますのは、学校の教員には、ピンからキリまであります。それらの全員が書かなければなりません。「あの先生は書くだけの能力が無いからはずそう」ということはできません。ですから学校著という本を、自分が指導する学校で出版するということは、大変なことなのです。

 私も専任講師としていくつかの学校でお世話になりましたが、私はそのような本をまだ一冊も出していません。

 高橋金次先生は、

 「個人の著書のように、売名行為につながるようなことはとてもできない。その学校の底力を引き出すためにも、学校著でなければならない。またそれが、指導者として最も大切なことだ」とおっしゃっていました。私には本当に耳が痛い言葉です。学校著を一冊出版するために、目次から、構想指導から、原稿指導から、校正から、殆ど全てを高橋金次先生がおやりになりました。これは大変な能力です。その中の一冊は「読売教育賞」を受けました。私はそういう業績をまったく持っておりません。高橋金次先生は本当に立派な先生だったと思います。私は高橋金次先生の直弟子をもって任じているのですが、今でも到底先生の足許にも及びません。

 

八、    高橋金次先生についての一つだけの疑問

 

 しかし、私と高橋金次先生の意見が食い違っていて、これは私の方が正しいのではないかと思っていることが一つだけあります。高橋先生はこのようにお考えでした。

 「授業は担任がするものであって、担任ではないものが授業をするのは邪道である」―と。

 ですから高橋金次先生はあくまでもご自分のクラスでの授業を公開されました。附属小外の学校で、高橋金次先生の授業を拝見することは幻に近いものでした。

私はこのお考えにだけは反対です。私は、

 「授業はいつでも、どこでも、だれでもできなければならない」と思っています。ですから私はあちらこちらでご縁を頂戴して、授業をしています。なぜならば、教師は初めて子どもに出合ったそのときから、授業が出来なければならないからです。始業式のすぐ後でもう授業が始まるのです。初めて出合ったその日から授業をするのですから、担任ではなくても授業はやれなければなりません。

 私も函館を離れる日が近いものですから、先般、函館市立八幡小学校という、教育大学のすぐそばの小学校で、二年生を相手に授業をさせて戴きました。その日は、八十人程の先生方が集まりまして、協議会が開かれました。「指定討論者」として四人の先生方が選ばれました。私の授業について、「必ず問題点を挙げて発言する」というのが条件でした。ある先生から、

 「野口先生はこの授業をなさる前に、何度学級を訪問しましたか?」と質問されました。私は「一度もありません」と答えました。

すると今度は、

 「この子はこういう子だ、あの子はああいう子だ、ということについて担任の先生と連絡をお取りになりましたか?」と質問されました。私は、「全く取っていません」と答えました。

 「だからああいうことになったのではないですか?」とその先生は言われました。「ああいうこと」というのは、授業中にある女の子が泣いてしまったことです。私は授業で泣かせることが得意なようでして―。

 そしてその先生は、

 「知らない学級で授業をするのですから、一人ひとりの子どもの理解に努めて授業をすることが、授業者としての当然の責任ではありませんか?」とおっしゃいました。その先生はかなり良い突っ込みを私にしたと思ったのでしょう。ところが私はこれを全面否定しました。

 「むしろ私は、担任の先生と連絡を取るべきではないと考えています」―と答えたのです。

 ついこの間、山形県酒田市で授業をしたときのことです。担任の先生が吃驚していたことがありました。

 「あの子が指名されたので、答えられるかどうかハラハラしていました。ところが全く臆することなくしっかり答えた上に、野口先生に反論までしました。私には信じられません」私はこの驚きに対して、次のように答えました。

 「それは当然です。担任の先生と子どもとの関係は固定してしまっているからです。『あの子に指名しても、きっと答えられないだろう』と、そんな風に、担任の先生は子どものことを熟知しています。子どもの方も、『先生はどうせおれの話なんか聞いてくれないよ』と思っています。ところが私はどういう子であるのかを全く知りません。だから、みんな同等に見ています。子どもたちもそれを期待しています。ですから、知らない先生が授業をするとなると、どの子も張り切るのです。そして、固定的なステータスを破って私が対等に接するものですから、子どもたちもそれに応えようとするのです」―と。

 というわけですから、高橋金次先生の、「子どもを熟知した上で授業をすべきだ」というお考えに対してだけは、私はそれは違うのではないかと考えています。

 

九、    青木幹勇先生の最後の授業

 

 さて、「私が影響を受けた三人」ですが、高橋金次先生に偏ってしまいました。青木幹勇先生についても少しお話申し上げます。

青木幹勇先生が、筑波大附属小で最後の公開授業をなさった時、私も参観に行きました。授業の内容は今ではすっかり忘れてしまいましたが、先生は字が大変上手な方で、板書は本当に美しいというべきものでした。全国から大勢の先生が集まりましたが、授業の後、ある若い先生が、青木先生の授業には問題点があったとまくし立てました。それに対して青木先生はこうおっしゃいました。

 「今あなたにそう言われてみますと、ああそうすればよかったなあと私も思います。ただ授業をしていたさっきはそういうところまでは気が付きませんでした。しかし、今ではそうすればよかったと思っています。ありがとうございました」と。

 私は、これが本物の教師だと思いました。あれだけの実力をお持ちの先生ですから、若い先生の批判を論破することなど至って造作の無いことでしょう。ご自分の最後の授業で、しかも全国から相当の猛者が集まっている前で、謙虚な言葉が出るのを見て、大変に心が広い先生だと思いました。その時から私は、「この先生と付き合ってみたい」と思いました。

 

十、    青木幹勇先生の名言

 

 青木幹勇先生は、「国語教室」という十数ページの、パンフレットのような小雑誌を実に三十年近く、一号の欠号もなく出し続けました。昨年、惜しくも廃刊になりましたが、私はその「国語教室」の読者の一人として、青木先生の考え方、人生観、授業の方法などを学びました。その中で、これは素敵な言葉だと思い、忘れられないものがあります。それは、

 「教師は、子どもに向けて語る言葉を、自分の耳で聞けるようになれば、ようやく一人前である」―というものです。

 この言葉に出合ったときに、私は目から鱗が落ちるという思いをしました。私たち教師は子どもたちに向かって、朝から晩まで、理想的なことばかりを語っています。「早寝、早起きが大事だ」とか、「好き嫌いをするな」などと言いますが、さてそういう自分はどうかと振り返ると、本当は誠にお恥ずかしい限りです。出来もしないことを平気で子どもたちに語っています。しかも、そうすることが身に付いてしまっています。

 それを青木幹勇先生は戒めているのです。私はその言葉に出合ってから、子どもたちに言う言葉が変わりました。「これから夏休みに入るけれども、毎日しっかりと計画を立てて、一日一日を充実させるのだよ」などとは言わなくなりました。

 「そうありたいとは思うけれど、先生自身のこれまでの夏休みを振り返ってみると、教師という職業に身をおきながら、大したことをしてこなかったといつも反省しています。先生でさえこの体たらくなのだから、みんながもしも、夏休みを充実させようと思うのならば、相当の覚悟が必要ですよ」

 こういう話し方をするようになりました。そうすると、子どもたちは素直に私の言葉に耳を傾けるようになりました。

 芦田恵之助先生は、

「滑らんで聴きなさい。滑らんでやりなさい」とおっしゃいました。「子どもを滑らせてはいけませんよ。言葉だけで育ててはいけませんよ。自分を省みて、恥ずかしくない言葉を発しなさい」という意味です。青木幹勇先生の言葉と通ずるものがあります。

 

十一、「国語人」としての教養のあり方

 

 私は「国語人」の一人として、国語教育を専門にして子どもたちの前に立つならば、「さすが国語の先生だ」と思われることが必要だと考えています。季刊雑誌「鍛える国語教室」は残念ながらあと一号で廃刊となりますが、私はあの雑誌の最後のページに、名だたる国語教育者の色紙を載せようと考えてきました。石井庄司先生、野地潤家先生、倉沢栄吉先生、そういった大御所の方々です。大村はま先生にはついに断わられ続けました。

三人の大御所の字は、思っていたよりも貧相で残念でした。私は、日本の国語教育をリードするような人は、色紙の一枚くらいはいつでも書ける筆力がなければならないと思っています。「おれはソビエトの言語教育が専門だから」と言う方もいらっしゃいます。確かに学者はごく一部の領域を専門にしますからそれでも構わないのかもしれませんが、国語教育を代表する先生であるならば、一通りの字が書けて、一通りの字が読めなければならないと思います。短歌や俳句も一つや二つは即座に詠めるくらいでなければならないと思います。国語人としてはそのくらいの総合的な力を持つべきだと思います。

 青木幹勇先生は俳人です。先生は絵もお描きになりますし、書もよくなさいますので、青木幹勇先生の短冊、色紙は大変すばらしいです。話しても上手、読んでも上手、書いても上手、話を聴く時には極めて謙虚に若い者の言葉にも耳を傾ける。こういうことが調和的に身についてこそ、「国語人」です。今は半端で偏った国語教師がたくさんいます。あることはできるけれど、あることはダメ、というようなことでは、少なくとも小・中学校の国語教師としては失格です。小・中学校の国語教師の場合はやはり話し方が上手で、字もきれいで、筆を持っても達筆で、そして、掛け軸の文字がすらすらと読めるような、そういう総合的な力を持ってこそ、国語人です。昔の国語の先生はそういう力をきちんと持っていました。なぜ持っていたのかといいますと、師範学校のカリキュラムが、そういう総合的な力をつけるようになっていたからです。戦後の教員養成は、どこの大学でも免許が取れる開放制になり、そのことによって、教師の総合力は低くなりました。

 青木幹勇先生はいつでも詩歌や古典を読み、ご自分でも創作しながら勉強なさっていました。さすが国語の先生だと思います。

 高橋金次先生は短歌や俳句をご自分では作りませんでしたが、鋭い批評のできる方でした。「国語人たる者は、そういう厚みを持っていなければならない」というのが私の主張です。

 国語の教師としては、まずはそれぞれの言語技術が水準以上であるべきです。字も上手、話し方も上手、読み方も上手という言語技術が人並み以上であるということです。そして、言語についての豊富な知識も必要です。高田敏子さんの詩をたちどころにいくつか挙げられるとか、愛諳している漢詩をいくつか言えるとか、そういう知識が欲しいものです。

 この間、ある大学生の卒業論文に、「広告」と書くべきところを「公告」と書いてありました。ワープロですからたまには変換間違いもあるだろうと思ったのですが、全部「公告」になっていました。そこで、口頭試問の時に、「広告」という字はどのように書くのかを尋ねた所、案の定「公、という字に…。」と答えました。間違いにまだ気付いていないのです。

 「『公告』なんて書くと、裁判所から叱られますよ。破産して競売にかけるときの言葉ですよ。こんな基本的なことを大学の学士論文で間違うなんて、失礼です。正しく書き直して再提出しなさい。」と私は言いました。そういう言語知識も国語人ならば、豊富でなければいけません。だからこそ日本の国語教師は、国語教育のみならず、様々な分野で教師のリーダーとして尊敬されてきたのだと思います。

 

十二、東井義雄先生の名言

 

 東井義雄先生は、今では教育者の神様のような方です。先生は小学校の校長先生をおやりになり、大学の教授もなさった方です。

東井先生のご郷里には、東井義雄先生記念館があります。小学校の先生で記念館を建ててもらった人は、東井義雄先生以外にはいらっしゃらないと思います。

 東井義雄先生は国語教育だけではなく、非常に裾野が広い方でした。先生の言葉で私がとても大切にしている言葉があります。

「夜が明けるから、太陽が昇るのではない。太陽が昇るから、夜が明けるのだ」という言葉です。とても素敵で、私が大好きな言葉です。

 私よりも一歳年上の酒井臣吾先生が小学校長を定年退職される時、最後の研究会が盛大に行われました。誠に不思議な会で、「これから授業が始まります。」という放送だけで授業が始まり、来賓もなく、

校長の挨拶もなく、いつの間にか終わりになるという不思議なものでした。最後に私は、

 「これほどに非常識な研究会は見たことがありません。しかし、この非常識がいつか教育界の常識となった時、おそらく日本の教育界は夜明けとなることでしょう。『夜が明けるから、太陽が昇るのではない。太陽が昇るから、夜が明けるのだ』という東井義雄先生の名言があります。酒井臣吾先生は一つの太陽を新潟の地から昇らせました。来年は、千葉の地から、私が小さな太陽を昇らせるつもりです」

と挨拶をしました。大きな拍手が起こりました。結局、私は何かをやらない訳にはいかなくなりまして、酒井臣吾先生の後を追って、「心の教育フェスティバル」を退任校で行いました。延べ二千人の先生方が集まって下さいました。

 東井義雄先生は、ある荒れた中学校の講演会に呼ばれ、その時に、先生は、「馬鹿にはなるまい」という講演をされました。

 「馬鹿にはなるな。人生を粗末にする者を馬鹿というのだ」

とおっしゃいました。話のおしまいに、

 「どうだ。君達は馬鹿になりたいと思うか」と問われました。

中学生は、みんな

「馬鹿にはなりたくない」と答えました。その中に、家出を十数回も繰り返した、大変荒れていた女の子から、東井義雄先生の所に手紙が届いたそうです。

 「私はこれまで、勉強についていけず、成績が悪くて自分は馬鹿だと思っていました。それが面白くなくて荒れていました。でも先生のお話を伺って、私は『本当の馬鹿』だったことに気が付きました。もう私は、馬鹿にはなりません。」

というものでした。

 

十三、「国語人」としての国語教師像

 

 国語教育のプロ教師というのは、単に国語の授業が上手だとか、発問が上手だというだけではなく、人間を救う力までなければならないと思います。それは、失礼ながら算数や理科の先生には不可能だと思います。国語教育者というのは常に、人間を問題にし、人生を対象とした言葉によって、万般の物事に接し続ける人であるべきです。

 私は高橋金次先生、青木幹勇先生、東井義雄先生から、国語の先生としてのあり方を折に触れて教わりました。それを私なりに体系付けてきたつもりです。

 先生方の身近にもきっとすばらしい先生がいらっしゃるはずです。もしも身近にそういう方は誰もいないと思うならば、それは自分が一番偉いと考えている証拠ですから、その考え自体が不遜であり、大きな問題です。

 尊敬できる先生に積極的に、気楽に近寄ってみてください。その結果、案外俗物だと思ったならば、離れればいいでしょう。そのようにして、本物の師匠を探し続けてください。

 元々まとまらない話になるような気がしていましたが、案の定、そうなってしまいました。お詫びを申し上げます。

 どうもありがとうございました。(拍手)

 

  文責 北海道教育大学教育学部函館校 

                 教育学専攻4年 近藤 章