「問われてくる教師の哲学」

―行動をはじめた子供たちに―

野口芳宏先生 講演

函館湯の川プリンスホテル渚亭

平成13年1月14日(日曜日)                   1340分開始

 

1.歓迎の挨拶

 

 みなさん明けましておめでとうございます。それぞれ貴重なお時間で、ご用件がおありだったでしょうけれど、ようこそたくさんの方おいでくださいました。ありがとうございます。私は函館に5年間お世話になりましたが、間もなく千葉に帰らなければいけませんので、一回一回の出合いがとても大事な時間になってくるような気がしています。

 今日の函館は零下7度だそうです。ラジオでそんな放送をしていましたが、函館はいいですね。私は4日ほど前まで釧路に5日間いたのですが、釧路の冬は「雪」ではないですね。「氷」の街ですよ。二度すってんころりとやりました。あまり普段転ばないものですから、転んだ途端、左の手でグッと体を支えました。二度とも左の手で支えたので今もちょっと痛いです。いやあ氷よりも雪のほうがずっといいですね。釧路ではスキーは誰もできないそうで、みんなスケートだそうです。所変わればそんなにも変わるものだなあと思いました。

 

2.「管理」ということの大切さ

 

 さて、私に与えられた時間は2時50分までです。あとの20分は、私が申し上げたことについて色々とご批判をいただいたり、誤解されかねないことについて確かめたりして、誤解をお互いに持ったままで別れたりしないようにしたいと思います。どうぞ批判的にお聞きいただきたいと思っています。

 どうも最近青少年をめぐる色んな生臭い事件が起こっていますね。一つ一つを挙げると本当に辛くなりますが、高松市の「成人式で若者が市長の祝辞を妨害して逮捕された」という事件。妨害したというのは大変苦々しい事ですが、逮捕されたということに関して私は大変スッキリしています。これで世の中の掟というものをきちんと狼藉者に教えることができる。今まではああいう者が出ると、大体は行政の責任者は「まあまあ、彼らも成長の途上ですから」なんて言って、穏便に済ませてきました。そういうことが多くの甘やかしを生んできたと私は思っていますので「逮捕された」ということを聞いて「やあ、この市長さんはなかなかやるなあ」と思いました。またそうでなくてはならないと思います。

 去年は一年間、17歳事件が世の中の耳目を集めました。また最近は仙台の「準看護士の筋弛緩剤投与事件」。まことにどうも…何を考えているのかと思いますね。だんだん色々なことがわかってくると、病院の「管理」ということも大変杜撰だったという問題にもなってきていますね。

 ところが学校という教育の世界では「管理」ということが目の敵にされています。「管理教育はダメだ」と言われる。「なるべく子どもの自由にさせるのがいいんだ」と言っている。もし「もっと管理を徹底させよう」などと校長が発言しようものなら、大変な反論をうける。今はそういう時代です。

 本当は「管理」ほど大切なことはありません。例えば「健康管理」です。自分の健康をきちっと管理するということは非常に大事なことですね。それによって自分が良好な健康を保ち、活動ができるわけですから。

 「管理」というものはとても大事なことなのに、それを目の敵にするという風潮が増えてきている。これはやっぱりおかしいことだと思います。

 

3.価値観混乱の時代

 

 去年の9月の産経新聞の記事ですが「親に戸惑う教師たち」という見出しのものがありました。ご紹介します。「子どもの話を聞いたお父さんが怒って担任の先生の家にダンプで突っ込んでやる」というものです。物騒な話で、担任の先生も大変でしょうなあ。もちろん実行はされませんでしたが。一体何の話なのか。

 「東京都内の小学校の保健室で、1年生の母親が養護教諭を相手に物騒な話を始めた。事の起こりは数日前、休み時間に1年生の男の子が『タダシがさあ』と、父親を呼び捨てにしながら話していた。そこで担任の先生が、『人前ではお父さんと呼びましょうね。』と教えた。すると父親は『ウチでは親子は対等の立場だから、お互い名前で呼び合うことにしている。』『担任の先生は家庭の方針に理解をしてくれなかった。』こう言って担任の先生への批判が続いた。」こういう出来事です。

 みなさんこれを、どう思いますか?実はこれを取り上げて、札幌の小学校で4年生の子どもたちに道徳の授業をしました。

「どうだい、この親が言うことと担任の先生が言うことでは、どちらが正しいかね。『担任が正しい』という人はノートに○を、『いや、親が正しい』という人は×をつけてください。」と言って作業をさせました。どんな結果が出たと思いますか?実に4割の子どもたちが「親が正しい」と言いました。その理由は「家庭のことに担任の先生は口出しすべきではない」ということです。一応の理屈は通っています。

 「子どもと同じレベルで感情的になったり、子どもの前で教師の悪口を言ったりする母親が目に付くと、その養護教諭は話していた。」と書かれています。

 もう一つの記事があります。「ある小学校で盗難が相次いだ。A君は加害者だった。同級生のゲーム機を校庭に埋めた。ところが埋めたゲーム機を取りに行ったところ、誰かが持ち去っていてもうなかった。そこでその母親は、『うちの子は隠しただけでそれを土の中から持っていったのは他の子だ。』『盗ってはいないのだから、弁償する必要なんかない。』と言い張った。」のだそうです。今度はこの母親が別の立場に立たされました。

「数ヵ月後今度はA君のゲーム機がなくなった。上級生の仕業とわかったときは、この母親は強硬な態度に出て、新品を弁償させたのだった。」とこういうことです。こういうお母さんは頼もしいとも言えますなぁ。けれども、どういうものでしょうかねえ。

「子どもの言い分をそのまま鵜呑みにしたり、筋が通らない態度をとる親が子どもに良い影響を与えるはずがないのに…。と振り返る。」とも書かれています。

 また、幼稚園の先生のお話ですが「半数の子どもが入園時に自分でトイレに行けない」「七夕に短冊を書かせると幼稚園児が『かねがほしい』と書く」というようなことが書かれています。

 青年から少年、そして親と、色々に価値観が変わってきていますが、これを「価値観の多様化」という人がいます。「一律の価値観で律することができなくなった。様々な見方が生まれてきた」とこういうわけです。しかし私は「多様化」という言葉で言ってしまうことには大きな問題があると思います。これは「価値観の混乱」と言うべきであります。

 

4.価値観の標準化が必要だ

 

 価値観が混乱してきますと、お互いに考える立脚点が違うものですから、様々なトラブルを生じてきます。私は「価値観の多様化」から今や「価値観の標準化」に路線を変えていかないと、教育はとんでもないことになるという気がしています。「一つの価値を押し付けてはいけない」と言う人がいますが当分の間、あえて「一つの価値を押し付け」てみてはどうでしょうか。

 これはいろいろなところで私が話していることなのですが、臨時教育審議会が10年ほど前に新しい提言をしました。そこで言われた大きな提言は「教育の自由化と個性の尊重」という二つでした。この二つはその後、大きく社会をリードする主張となって先生方の間に定着していったと私は見ています。

 東京都国立市で「卒業式には日の丸を掲揚し、君が代を歌うように」という都の教育委員会の指導を受けて、校長先生がそのように卒業式を企画したところ、職員がみんなで反対してああでもない、こうでもないと言って実に深夜の12時、1時まで討論をしたそうです。とうとう校長先生が折れて「日の丸を屋上に掲揚する」ということで式をおこなった。ところがその後、卒業生とそれを取り巻く担任が校長先生をつるしあげ、土下座をさせて謝らせた、という大変象徴的な事件がありました。「校長先生の見識、判断力」に対して小学校6年生が「けしからん」といって、校長先生が土下座して子どもに謝ると、こういうことでした。私はこれらは「価値観の混乱」という一言でくくるべきだと思います。

 

5.混乱の責任は学校教育にある

 

 さて、子ども、青年、親の問題など、様々な問題が噴出してきていますが、その責任は一体どこに、だれにあるのか?教師である私は「すべて学校にその責任がある」という立場を宣言しています。「親が変わってきた、親が狂ってきた」といいますが、親もかつては子どもであります。純真な子どもの時代があったわけです。生涯に通じるしっかりした教育を学校がしなかったことによって、結局は自分の人生を自信を持って堂々と生きる力を与えられなかったのです。

 教育のプロは学校であります。「すべての責任を学校に押し付けるなんてそれは無理だ」というお考えも無論おありでしょうが、私は教師でありますからそう言うのです。私がこれを言ったときに、親の立場から同調して「そうよそうよ、センセがみんな悪いのよ」と言われれば、私は必ずしも賛成できません。親は親として親の責任だと考え、教師は教師として私たちの責任だと考えるところに解決の糸口があると思います。教師が家庭の悪口を言い、家庭が学校の悪口をいい、ある人は政治家の悪口を言うというのでは何も解決しないと私は考えています。

 

6.教育公務員の研修権

 

 それでは、そのような学校による教育の混乱はどこから生まれてきたのかといいますと、この講演の表題にもありますが「問われてくる教師の哲学」ここに帰するのではないかというのが私の仮説であります。

 例えば「かけざん九九を、どの子にもわかりやすく教える技術、漢字書き取りをたくさん正確に覚えさせる先生の教え方の技術」こういったことについては長い時間をかけて、先生方は一生懸命勉強をしてきました。そして、教え方の上手な先生がある時期よりもずっと増えてきたと私は考えています。

 私たちは一般の公務員とは区別して「教育公務員」と呼ばれています。教育公務員は「教育公務員特例法」という法律で、政治活動が禁止されていたり研修権が認められたりしています。

 一般の行政にかかわっていらっしゃる方にも、いろいろな講習はありますし、事務能率を上げるための勉強会はあるでしょう。私たち教師の場合には、職場を離れ、場合によっては出張旅費までもらって、自由に自分の職務能力を高める勉強をすることができる「研修権」が与えられています。これは大変貴重な教育公務員の身分的財産であります。

 

7.偏った研修権の活用

 

 この「研修」という言葉はもともと中国語ではありません。日本語です。条文を開いてみますと「教員はその職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」と書いてあります。

 それなのに、先生方は何をやっているのかというと、専ら「研究」の方だけをやっている。この方が先生方には格好がいいのであります。だから「国語の研究」とか「道徳の研究」など、そういう先生方の研究会はかなり盛んであります。その成果がある形をもったときに、その成果を公開し、広く裨益していこうということで公開研究会という機会がたくさんもたれます。

 校内研究会、公開研究会、文部省指定研究会、教育委員会指定研究会と研究会の方はたくさんありますが、「修養会」というものがもうけられたことはありません。「今日は公開修養会です。」なんていうことは全く聞いたことがありません。

一言で言いますと「研究」というのは教え方、つまり「技術」の研究です。それに対して「修養」というのは、「自分の生き方」の問題です。教育者としてどう生きるか、教育とは何か、教師とは何なのかということを考えるのが「生き方」です。これはその人間のもっている「哲学」だということができます。

 戦後50年余り、日本の教師は教え方の技術を「研究」と称して日本中で盛んにおこなってきました。しかし修養の大切さに目を向けて、そこが大事だと考えてきた人は実に寥寥たるものです。殆どいないと言ってもいいでしょう。

 今日は幸い学校の先生もたくさんおいでくださっていますが、普通こういう所に来る学校の先生は殆どいません。一般の社会人、親御さんはこういう所で勉強しますけれども、先生方は「教え方の勉強会ならば行くけれど自分の生き方なんてことなら間に合ってるわよ」とこういう考え方です。その50年間の付けが今、噴出し始めているのではないかというのが先程申し上げた私の仮説であります。

 本日は、「問われてくる教師の哲学」という表題をつけました。今までは子どもたちが先生に問いかけることはなく、遠慮していました。しかしこの頃の子どもは問いかけ始めました。

 例えば、愛知県の主婦殺害事件です。犯人のあの高校生は「虫を殺すのも、動物を殺すのも、人間を殺すのもみんな命は一つしかないのだから同じではないか。なぜ人間を殺すのはいけないことなのか?」と問いかけています。そんな質問をする子は今まではいなかったのです。そうして子どもがまともに問いかけてきたときに「それはこういう理由だ」と胸を張って答えられる教師がどれくらいいるでしょうか。われわれ教師は長い間、研究ばかりに思いを注ぎ、「修養」という非常に大事なことに目をつぶってきたのではないでしょうか。

 

.「修養」の重要性と意義

 

 さらに、研究と修養では大違いなことがあります。前者は、「他人をどうするか」ということであります。後者は、「自分をどうするか」ということであります。多くの教師は自分を変える必要はないと思っています。変えなくちゃいけないのは子どもの方だと思っています。だから教師が子どもに向けて言う言葉というのは常に理想的です。「努力が大事だ。」「努力をすればできないことはないのよ。」なんて言うけれど、言っている本人はどれほど努力しているのでしょうか。「読書は心の糧という。本を読むということは自分の心を耕すことですよ。だからこの秋のいい時期にみんな本を読みましょうね。少なくとも月に2冊くらいは読まなくちゃいけませんよ。」と、先生は子どもに話します。しかし、子どもが手を挙げて、「先生、今年になってどんな本を読みましたか?」と質問すると、「ばかなこと聞くんじゃない。そんなことはどうでもいい。あんたがたのことを言っているんだ。」とこうなりがちです。こういうことが長く続くと子どもは教師を信用しなくなる。「ははあ、うまいことを言っているだけなんだなあ。自分にできもしないことをぼくらに言っている。」それを見抜いたときから、子どもは教師の言葉に耳を傾けることをしなくなるでしょう。

 

.教育が成立する二つの条件

 

教育というものはどんな時に成立するのでしょうか。これは二つしかありません。「信頼」と「尊敬」があるときのみです。軽蔑と不信の中から教育が成立するはずはありません。「あんなばかの言うことなんか誰が聞くものか。」となるのは当然です。「あの人が言うことなんて本気にできるものか。」こう思うのも当然です。信頼と尊敬を得るためには、教える教師自身が自分の人生に対して誠実でなければならないでしょう。できないことは「できない」と言わなければなりません。

例えば夏休みの前に先生は「いいかい、夏休みは学校に来なくてもいいのだから、生活が不規則になりがちだよ。だから、できるだけきちんとした時間に起きて、一日の生活の予定を立てて、それに従って暮らしていくのがいいんだよ。」などと話します。このままではいけない。その後で「まあしかしね、そんな立派なことを言っても先生だってこれまでちゃんと暮らせたかなあ。振り返るとまことに恥ずかしい。先生でさえ夏休みに規則正しい生活を送るのは難しいことなんだ。だからみんなができるなんてことは必ずしも期待しないよ。」そういう正直な言葉を教師が一言でも発したとき、子どもは「ああ、この先生は本当のことを言っている。」と、了解して素直に耳を傾けるのではないかと思います。

 

10.教育の本質は感化

 

では教師はこれからどういう修養をしていけばよいのでしょうか。どういう生き方を求めていけばよいのでしょうか。実は、「研究」には「修養」が滲み出てこそ成立するものです。これらを別々にしては成り立ちません。修養が滲み出て子どもを変えることを「感化」といいます。「あの人から非常に大きな感化を受けた。」というように申します。

私もたくさんの先輩に出合って大きな人生の感化を受けました。私は今こうして皆さんの前でお話をさせて戴いていますが、自分の来し方を振り返ってみますと、どれ程たくさんの先達から感化を受けてきたか知れません。

私が最も大きな感化を受けたのは平田篤資(とくすけ)先生という内科のお医者さんであります。この先生と出合って、私は自分の人生をがらりと変えられるくらい大きな感化を受けました。あるとき平田先生が病気でお倒れになりました。私はすぐにお見舞いに駆けつけました。先生はご自宅で臥せっていらっしゃいました。私が「先生、いかがですか。」とお見舞いを申し上げたところ、最初に先生はこうおっしゃいました。「いやあ申し訳ない。人の健康を預かる医者という身にありながら、自分の健康管理もできなかった。まことに恥ずかしい。申し訳ない。」―と。

私はその先生の謙虚さ、そのような言葉がパッと出てくることに深い感銘を覚えました。「ああやっぱりこの先生はきちんとご自分の仕事を自覚なさって、普段から暮らしておいでなのだなあ。」と思いました。

感化というのはその人間の生き方、その人間の哲学を抜きにしては成立のしようがないと私は考えています。

教師の一人ひとりが「おれはこういう生き方をしているぞ」ということを子どもの前で説得力を持って語れるとき、子どもは必ず感化を受けるでしょう。ところが、生き方を語れる先生、哲学を語れる先生というのは非常に少ないと私は思っています。「生き方」というのは結局は人生観の問題であります。「人生をどう見るか」ということであります。

 

11.幸福とモノ・カネ

 

さて、人生の目的とは一体何でしょうか。私たちは日々生きています。人生を一日一日刻んでいますが、「人生とは何か」とか、「人生の目的とは何か」と問いかけてみると、そう簡単には答えが出てきません。

私は私なりに本気で考えてみまして、人生の目的は二つあるということに今のところ辿り着いています。もっと時間が経てばまた変わってくるかもしれません。ひとつは「幸福の実現」ということであります。幸福な人生を送れれば人生は合格ですね。不幸な人生を送りたいと思っている人はいません。幸福な人生を送りたいとみんな考えています。

では、「幸福とは何でしょうか?」この「幸福観」が戦後はモノ・カネというところに向けられたことは皆さんご承知の通りです。「モノで栄えて心で滅びる」といった人がいますが、まことにうまい言葉だと思います。昨日私は東京に泊まりました。蒲田という東京で言えば場末の町です。そこに「閉店セール」というのぼりを立てている店が4軒もありました。なんと商品は半額から8割引だそうでありますが殆どの人は買いません。もういらないのですね。私も腕に時計をしていますが「安いからもう4つばかり買おう。」なんていう気にはなりません。ひとつあれば充分です。「おおズボンが安いから2本穿くか。」などとはなりません。

モノ・カネが人間の幸福を保障するという神話は、貧しい時代には説得力がありました。テレビがないときには「テレビが欲しいなあ。」と思います。電気洗濯機がないときには「電気洗濯機を買いたいなあ。」と思いますが、現在日本の標準的な家庭ではすべてが整えられました。実に「9割近くが中流意識を持つ」と日本の国民意識を分析した結果が出たことがあります。

「モノ・カネが幸福を実現するというのはどうも怪しかった」と、知性的な人は気付き始めています。しかしそうでない人は相変わらずモノ・カネを求めています。新聞紙上を賑わす強盗、殺人、様々な事件を見ますと、大方は「遊ぶ金欲しさ」と書いています。人生の価値、人生の本当の面白さということには気付かないで「カネさえあれば幸せになれるのだ」と今でも考えている愚かな者が様々な事件を起こすのであります。

昨日の読売新聞の夕刊に「都内の留置所満杯」という記事が載っていました。犯罪が年々増えて留置所がぎゅうぎゅう詰めだそうで、一人に一畳の場所を確保するのがやっとだそうです。「このため警視庁では、署の改築工事に合わせて留置所を増築していく方針だ。」ということであります。

国民の9割が中流意識を持つ豊かな日本です。人類が長い間夢に見て、今到達したその頂点で「留置所の増築」とは、実に皮肉な話でありました。

モノ・カネというものが「幸福の実現のカギだ」と思ってきましたが、これからの教育では「幸福というものはモノ・カネだけでは絶対に得られない。」ということを教えなければなりません。教師が心から生き方としてそれを信じ、それを子どもたちに熱を込めて語っていくときに、子どもは「人生というものはそういうものか。」と学ぶのだと私は思います。

そういうことを私たちはやってこなかった。かけ算の九九、漢字書き取り、理科の実験、水泳大会で優勝すること、などなど目の先のことばかりとらわれて、「その先のこと」にまで目を向けて教育してこなかったと反省します。

私はモノ・カネが駄目だと言うのではありません。モノ・カネ「だけでは」駄目だと言うのです。それだけが幸福の十分条件ではないということです。

 

12.幸福の本質は何か

 

それでは改めて「幸福」とはどういうことでしょうか。健康であること、家族が仲良く暮らしていること、悩みがないこと、などなど色々考えられます。しかし私は少し別の視点から幸福というものを考えるようになりました。それは「人から大切にされる」ということではないかということです。家内からも大切にされ、親からも大切にされ、子どもからも大切にされ、親戚の人からも大切にされ、近所の人からも大切にされ、同僚からも大切にされ、先輩からも、後輩からも大切にされる。そういう人生は大変幸福ではないかと思います。たとえ健康が損なわれても、そうであれば幸せです。病気で倒れて入院しても、私の健康を気遣ってくれる人たちが時々顔を見せては励ましてくれる。それは恐らくずいぶん幸せなことだと思います。

幸福の定義には色々あるでしょうが、私は今「人から大切にされる人生」が幸福な人生ではないかと思っています。これは私の言葉で幸福を定義したものであります。哲学者がそう書いている訳ではありません。

私は、有り難いことに大層幸せだと思っています。函館での5年間は両親、妻、子、孫を千葉において、単身未知の所で暮らすことになりました。しかし、函館の5年間は私にとって本当に贅沢な、すばらしい時間でありました。ここにお集まりの方々にも本当に大切にして戴いたと思っています。だから私の函館での5年間は幸せだったなあと心から思います。

では人から大切にされるにはどうすればいいのでしょうか。それは「人を大切にすること」以外にはありません。自分のできる範囲でお役に立てることは有難くやらせて戴く、お世話になったことには感謝の言葉を述べる、そういう日々の「人を大切にする」という実践の見返りとして、今度は人が私を大切にしてくれるのだと思います。だから子どもに幸福な人生を送らせようと思ったならば、「人を大切にするという人生をあなたが築かない限り、あなたの幸福は来ないのよ。」ということを子どもに説いていくこと、そういう教育の在り様というのが私はとても大切なことではないかと考えています。

1週間に1回道徳の時間というのがあります。私も38年間小学校でお世話になりましたから、たくさんの道徳の授業を見せてもらいました。しかし人生に想いを致すような、そんな道徳の授業に出合うことはなかったように思います。紙芝居をやって、優しいタヌキさんにサルが感謝する話、これで親切ということの大切さを教える。それは紙芝居が教えているのであって、先生が教えているのではない。やはり「おれは人生をどう生きてきたか」ということ、かけがえのない己の人生から「これだ」と思うことを教師が自分の言葉で子どもに語っていく、そういうことが大事ではないかと考えています。

 

13.もう一つの人生の目的

 

では人生の目的は、幸福の実現が叶えられればそれで事足れりとなるのでしょうか。幸福でさえあれば、その人の人生はそれでいいのか、という問題であります。今、大半の日本人には幸福が実現されています。「だからそれでいいじゃないか。」ということになりそうですが、果たして本当にそれでいいのでしょうか。

私は幸福なだけでは、人間として生まれてきたということに対して少し淋しさを覚えます。お経の中に「人身受け難し」という言葉があります。命を持った夥しい生物、植物、動物がいる中で、人間としてこの世に生を受けるということはなかなかに難しいことなのだという意味です。ある哲学者は、「ガンジス川の両岸にある夥しい砂粒の中から、ほんの一つまみをすくい上げる量ほどに奇跡に近いことなのだ。人間として生命を与えられるということは奇跡的であり、それほどに価値の高いことなのだ。」と言っていますが、私も全くその通りだと思います。人間としてこの世に生を受けたということは本当に稀有の幸せです。

私は「生きる意味」というテーマで、色々な所で先生を相手にしたり、子どもを相手にしたりして道徳の授業をさせてもらっています。その第一の問いは「人間として生まれてきたことを本当に幸せだと思っているかい?本当に幸せだと思う人は○を、そうでないと思う人は×をつけなさい。」ということです。先生方の中にも必ず×をつける人がいます。そこで訊いてみるのです。「一体何に生まれたかったのですか?」と。すると、「私はスズメに生まれたかった。」なんていう人もいますし「猫に生まれたかった。」という人もいます。しかしちょっと問いつめていくともう言葉が続かなくなります。

人間は言葉という文化を持ち、言葉によって歴史を積み重ね、文化を伝え、発展させて今日に至っています。鶏なんていうのは何百年も前からあのままであります。犬もそうです。ところが人間は、空を飛ぶ鳥よりも速く空を飛び、魚よりも速く海の中を移動し、すばらしい文化を創造して私たちの生活をより快適に、より充実したものにしてきました。そういう人間の一人としてこの世に誕生したことは大変すばらしいことであります。そのすばらしい人間として生まれてきたということに想いを致すとき、人間としての生涯を終える時点で「ああ、おれの人生はお蔭様で充実していたなあ。」という「充実感」を持ちたいと心の底から思います。幸福と充実感、この二つが叶えられれば人生、万歳と言っていいのではないかと思います。

幸福というのは言うなれば個人的な問題であります。自分が幸せであったか、ということであります。充実感というのは個人的なことではなく、社会的な問題です。個人的には幸福であり、社会的には充実したという人生を送れたとき、人生の合格証を貰えるのではないかと私は考えています。

 

14.充実感とは何か

 

では充実感とは何でしょうか?それは「人に頼りにされること」であります。人のお役に立つということであります。私は校長生活の最後の卒業式をやり終えましたその日、まだモーニング姿でいましたところへ、私の家から電話があり、「家内が倒れた」という連絡を受けました。全く考えてもいなかったことであります。人生というのはいつ何時、どんなことが起こるかわかりません。急いで着替え、病院に駆けつけました。

家内は大変忙しい身ですから、なるべく早く風邪を治して働きたいと考えたようです。そこで、お医者さんと相談して注射を打ちましょうということになりました。お医者さんは「この注射をするとしばらくは目がくらむので、立ったり歩いたりしないで安静にしてお過ごしください。」と言ったそうです。家内は「はいわかりました。」と言って注射をしてもらい、会計の処理のために待合室にいると「野口さん。」と呼ばれました。家内はすぐに返事をして立ち上がり、お金を払いながら、昏倒したのであります。目がくらんで倒れたのですね。それを見ていた人は「頭が弾んだ」と言っていました。人間というのは立つことができなくなった時には物体と同じになるのですね。それで、硬いコンクリートの床に後頭部を打ち付けたのです。ものすごい音がしたそうです。そのまま人事不省になって、病院に入院しました。

幸い元気になって、今は元通りの権力を振るって私を支配、指導しておりますが、家内が我が家を留守にした半年間、我が家の狼狽ぶりというのは大変なものでした。貯金通帳一つにしてもどこにあるのかわからない。総ては家内が取り仕切っているからです。娘が言いました。「お父さんが倒れてくれればよかったのに。」と。そうです、私が倒れても何でもないのですね。孫のことから、子どものことから、農業のことから、家計のことから、もう何から何まで家内がやっていますから。

この家内の病気を通じて、いささか我田引水の論法ではありますが、私は充実感ということを考えさせられました。野口家にとってどのくらい家内が当てにされ、人の役に立っていた存在だったかということを、しみじみと、まざまざと思い知らされました。

 

15.家族はみんな勲一等

 

春と秋に叙勲があります。校長先生を長くなさると勲五等という勲章が国から与えられます。高等学校の校長先生が勲四等、大学の名誉教授が勲三等です。大臣クラスで勲二等、これも特別の功績がなければ勲二等は貰えません。大変国家のために尽くした総理大臣、皇后陛下は勲一等であります。どんなに有能な小学校の校長先生でも、勲位は五等であります。私は恐らくそういうものには縁がないでしょうけれども、私の父は85歳で「高齢者叙勲」を戴きました。「ここでもらえない人は、もうもらえませんよ」という最後の85歳で勲五等をもらいました。

国家が「この人間は国家にとってどの程度有益であったか、どの程度社会的に役立ったか」ということを評価するのが「勲位」であります。しかし私は考えます。私は家内のあの出来事以来、私の家族にとって、家内はまぎれもなく勲一等に値すると思いました。我が家にとって、家内はかけがえのない貴重な存在です。迷うことなく勲一等であります。

それから、その目を娘に転ずる。お婿さんに転ずる。孫に転ずる。すると「この人はいなくなってもいいな」という人は一人もいないことに気が付きます。私の家族は91歳の父、81歳の母、私の家内と娘夫婦、孫が2人という8人構成ですが、誰一人として他の人に代えられるものではありません。「余人をもって代えがたい」という言葉がありますが、本当に一人ひとりが貴重です。そのことを思えば、紛れもなく我が家の全員が勲一等だと私は思います。

人生における充実感というのは、その人間の力がどのくらい他人から当てにされ、その力を発揮したときにどのくらい他人に喜ばれるかということを評価されることではないかと考えています。だから個人的に幸福であり、社会的な充実感が持てるならば、その人はすばらしい人生を送ったことになるのではないかと考えています。

実は、こういう話は子どもにもわかるのです。大人でなければわからないと思ったら間違いです。小学校の高学年になればちゃんと理解できます。そして、自分の生きる指針というものについてきちんと考えられるようになるのです。

無論、教師は子どもに「ものを教える」ということにおいては達人でなければなりません。教え方の下手な先生にお世話になれば、子どもの学力は思うようには伸びません。教え方の上手な先生に出合えば、めきめきと学力をつけるでしょう。しかしそれによって教師の仕事が終わるということにはならないでしょう。そのことによって終わると考えてきた付けが今、色々な形で社会に噴出してきている。私はそう考えています。

 

16.これからの教育・四つの提言

 

これからの教育の方向は、四つあると私は考えています。

一つ目は「技術から哲学へ」という方向です。哲学という言葉はあまりにも高等なために、少し違和感を持たれるかも知れませんが、技術・方法だけに汲々としていたのでは、教師としては不十分であるということです。教師自身が一つの哲学を持ち、教師自身が確たる人生観を持ち、それを子どもたちに語りかけていける力を持たなければならない。それが「技術から哲学へ」という提言であります。

二つ目は「研究から修養へ」という方向です。研究とは子どもを変えることであります。他人を変えることです。モラロジーでは面白いことを教えています。「過去と他人は変えられない」と。変えられるのは未来と自己であります。他人を変えることに汲々としていたのがこれまでの教師の大方の関心でした。それも大切ですが、もっと己自身を磨いて、子どもが「先生、先生」と慕ってくるようにならなければいけません。「先生にまた会いたい、先生の家にお邪魔してもいいですか?」というような師弟関係を築かなければ、これからの日本は危ういと思います。「下村湖人」の『次郎物語』は名作ですが、あの中に出てくる小林先生から、次郎は本当に心酔してさまざまな宝を学んでいきます。それとともに次郎の人生観はどんどん深まっていきます。私も教師の端くれとして38年間もお世話になってきましたが、「子どもを感化する、子どもの前に胸を張って立てる」という自分自身の生き方を示してきたか、と自問してみますと、まことに忸怩たるものがあります。

三つ目は「伝達から感化へ」という方向です。教師の力量は大方、伝達の力量で評価されます。伝達の仕方が上手であれば「いい先生」と呼ばれます。しかし、もっと優れた教師は「感化」の力がなければなりません。伝達は言語に因るしかありませんが、感化はあるときには言葉を必要としません。その人の生き方そのものが、子どもにとって大きな教科書となるからです。

 四つ目は「目の先からその先へ」という方向です。私たちは目の先のことだけで汲々としがちです。例えば先日、函館市立八幡小学校という、私の教育大学のすぐ前の小学校で、2年生のクラスをお借りして国語の授業をさせて戴きました。「似た意味の言葉、反対の意味の言葉」という授業でした。「上と下」「高いと低い」という反対の意味の言葉の勉強をした後で、「上」という言葉を黒板に残しておきました。そして、「今度は違う勉強だよ。今度は、上という言葉に似た言葉はあるかな?」と言いましたところ、あるかわいい女の子がサッと手を挙げました。「おお、立派、立派。」といって彼女を指しましたら、その子は「止まる。」と言いました。「上」と「止まる」は似ている言葉でしょうか。私は何が似ているのだろうかと思いまして、しばらく考えましたがわかりません。そこで「全然違う。」と言いました。そうすると張り切って発言をしたその女の子は、下を向いて涙をこぼしたのだそうです。私はそれには気が付きませんでした。

授業が終わってから「野口先生のあの言葉はひどい。」「子どもの心を傷つけた。」とたくさんの先生から非難されました。少女の心に深い傷を残したというのであります。果たしてそうでしょうか。「上」と「止まる」は似ている言葉でしょうか。「全然違う」というのが正解ではないでしょうか。だから「全然違う。」と私は言ったのであります。そのことで涙を流すのは、人生を甘く見すぎていると思います。間違った答えを言って「間違いだ。」と言われることは当然であり、それは有り難いことであります。一体、心に傷を付けられることなく生涯を終えるなんていうことがあるのでしょうか。

 成る程、目の先のことを考えれば「ああ、あんたは『止まる』と答えたということは『文字が似ている』と思ったんじゃないの?文字が似ていると言えば、本当にその通りだね。でも今先生が訊いているのは似ている文字じゃなくて言葉なんだよ。」と言えば、親切な先生、優しい先生として或いは私は喝采を受けたかもしれません。実際は子どもに「全然違う」と言ったのですから、2年生の女の子がショックを受けたことは当然頷けます。しかし、私は学校というところは否定され、破壊され、それを乗り越え、乗り越えていって、子どもが自分の考え方や生き方を学ばせてもらう所だと思っています。

 ところが今は、目の先のことばかりにとらわれ、間違えた答えにもバツを付けるということが、なされていないそうであります。「もう一度考えてごらん。」と言うのだそうであります。私に言わせれば馬鹿馬鹿しいの一言であります。4たす3は7が正解です。6はバツです。バツはバツと堂々と言えることが、長い子どもの人生を考えたときに大切な教育であります。ホイホイ、スイスイと子どもを甘やかせる教育が「個性の尊重」であり、そうする人が優しい先生であるように言われる現在の風潮に対して、私は極めて批判的であります。そんな風にやっているから高学年になって言うことを聞かない子どもが出てくるのです。注意されると先生にナイフを向けるような子どもが出てくるのです。そういう目の先にとらわれた自己中心的な教育は駄目だと私は考えます。束になって私を否定しにかかった先生方を私はばっさばっさと切り捨てて、その協議会が終わりました。

 お約束の時間になりましたので私の話を終わらせて戴きます。どうもご清聴戴きまして有り難うございました。続いて、私の話がおかしいというところを、どうぞご批判を戴きたいと思います。

 

司会・佐藤昌彦先生(北海道教育大学函館校)

 野口先生、有り難うございました。私はいつも野口先生と同じ職場でご一緒できるので、いつも野口先生のお話には励まされています。これから20分間、お聞きしたいことなどを是非ご遠慮なさらずにお話しください。急にマイクを向けても戸惑うでしょう。私が野口先生のお話で感動したことを言わせて戴きます。

私は野口先生と一緒に、5年前に赴任しました。野口先生は小学校の校長先生をおやりになった後で赴任し、私は小学校の担任をやっての赴任でした。小学校の教師の経験は約20年です。その頃私は、どんな大学の先生になればいいのかということが大変不安だったのですが、野口先生のお蔭でその不安は薄らいだのです。

私は10年前に、十二指腸潰瘍で、体の血液が半分以上なくなりました。コールタールのような血便が出たのです。小学校の駐車場に車を停めて、玄関に向かったのですが、階段の昇降口まで歩けないのです。顔色は真っ青になっていました。それから入院しました。同僚の先生からは、「幽霊みたいだ。」とか、「佐藤昌彦は再起不能だ。」なんて言われていたそうです。私は病院のベッドで点滴を受けながら、子どもたちに申し訳ないなあ、という気持ちで一杯でした。

 病室に入ってくるお医者さんはいつも真剣な顔をしているものですから「もしかしておれはこのまま死ぬのかな。」とも思うようになりました。「このまま死んでしまうのでは物足りないな。いい人生だったと思えるようになってから死にたいものだ。」と思いました。そのうちに勇気が湧いてきて、「やはりまだまだやれる。おれは図画工作が大好きだし、これにこだわっていい授業をしてみたい。」と目標を持ちました。するとみるみる良くなったのです。そして退院して、良い授業をやって、子どもたちと楽しく過ごせました。そのうちに北海道教育大学函館校とのご縁があって赴任したのです。

 そのときに野口先生もご一緒に赴任されたのです。今度は「野口先生のような先生になりたい」という大きな目標ができました。先生のお話に「感化」という言葉が何度も出てきましたが、私は正に野口先生に感化を受けていることを実感しています。

 野口先生が今年の3月で退官されるのは、私たち職員も学生も残念で、淋しくて仕方がありません。今日の講演も、3月の退官までの残り僅かな貴重な機会でした。

私は夢中でお話を聴いていて、気が付くと時計の針が一回りしていました。

これからご質問やご意見を受け付けます。野口先生との出合いを皆さんにさらに深めて戴きたいと思います。

 

Q. 私は教育実習のあり方に疑問があります。実習生を受け入れる学校現場の先生方の対応がだらしないと思います。「あなたは大学を卒業して、すぐに先生になるのだよ。」という心構えや姿勢をもっと厳しく学生に教えるべきだと考えます。

. 束の間とは言いながら5年間、北海道教育大学函館校でお世話になって教員養成に関わったものですから、そのようなご指摘をされると恥ずかしくなります。私たち職員もまた、伝えることが精一杯で「教師魂」「教師としての在り様」ということまでを充分に学生に話せるゆとりが持てないまま5年間が終わりそうです。大事なご指摘ですので、司会の佐藤昌彦先生に今後、引き継いで戴きたいと思います。有り難うございました。 

Q. 初めの新聞記事の内容に関してですが、「お父さんと呼びましょう。」という指導はいかがなものでしょうか。私は「父は」とか「父、タダシは」という言い方が望ましいのではないかと思います。

. 先程の事例は小学校1年生のものです。1年生の子が「父、タダシは」というのは出来すぎではないでしょうか。高校生ということになれば別ですが。これは「お父さん」という教え方で正しいと私は思います。発達段階に相応しい言葉の選び方だと思います。

Q. 私は小児科の医者をやっています。函館市立八幡小学校の授業の「『上』と似た意味の言葉で『止まる』と答えた子に『全然違う』と言った」ということに関して、私の意見を申し上げます。

   今の子は「意味を正確につかまずに答えてしまう癖がある」ということも考えるべきだったと思います。「上と似た『意味の』言葉」ということを早とちりをする子が出ないように配慮すべきだったと思います。相手は小学生なのですから。

   それから、実際に学校の先生に接してみて思うことなのですが、尊敬できたり、人生観を持ってお仕事をなさっているなという先生を見つけることは困難だという実感を持っています。「自然と共に遊ばせることが人の命を考えることにつながる」などといくら口で言っても駄目だと思います。また、絵画、演劇、音楽などの芸術に触れる、本を読む、社会参加をするという先生が極めて少ない。小学校の時代が最も情緒を育てねばならない時代です。そんな先生方が子どもに感化を与えるなんて無理だと思います。

. 2年生の女の子に対して、私は「『上』と『止まる』はどうして似ているの?」という問いをはさむべきだったと思います。そうすれば彼女は説明する機会を得たでしょう。私は自分の考えで「全然違う。」と言ってしまいました。65歳にもなってまだまだ未熟であることの証であり、お恥ずかしい限りです。

  芸術に触れたり社会参加をしたりする先生が少ないというのは全くおっしゃる通りです。それは教えることにのみ汲々としているからです。ただ、ちょっと恐れ入りますが現職の先生、或いは教育に関わっていたという先生、手を挙げてくださいますか?(大半が挙手)先生、どうぞご覧になってください。このようなことはこれまではなかったことです。極めて珍しいことです。手を挙げてくださった先生方有り難うございます。私は少しずつそういう先生方の社会参加の動きが出てきていると考えています。また私が退官した後は、司会の佐藤昌彦先生が「おれがしっかり引き継ぐぞ。」と力強くおっしゃってくれています。私はこういう取り組みを今後とも全国の教師に向けて展開していくつもりです。

  それでは時間になりましたので、私の役割を終わらせて戴きます。

  どうも有り難うございました。

                  15時10分終了

 

 テープ起こし 北海道教育大学教育学部函館校 教育学専攻4年

      近藤 章 

校正   野口 芳宏 先生